頭脳明晰なブレンデルのシューマン、抒情を極めたルプーのグリーグ
アナログ時代全盛期にロンドンで録音された協奏曲の銘品2曲を豪華にカップリング。
LP時代の定番、シューマン+グリーグをこれまでなかった組み合わせで
シューマンとグリーグのピアノ協奏曲のカップリングは、モノラル時代のリパッティ盤以来ベートーヴェン「運命」とシューベルト「未完成」、メンデルスゾーンとチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲などと同様に、アナログLP時代の定番の組み合わせでした。同じイ短調という調性、一度聴けば忘れられない印象的な冒頭部分、3楽章構成、そして3つの楽章の時間配分など共通する要素が多々あるのみならず、それぞれの曲の約30分という演奏時間もLP片面の収録時間の限界値であり、LP両面のスペースを目いっぱい使い尽くしてカッティングするというお得感もあったと思われます。今回当シリーズで発売されるアルバムは、アナログ時代にロンドンでロンドン交響楽団と録音された名演・名録音という共通項を持ちながらも、ピアニスト/指揮者も、当初の発売レーベルも異なる2曲が組み合わされているところに大きなポイントがございます。
知性派ブレンデルの躍進
2008年に引退するまで、20世紀後半から21世紀初頭にかけて、みずみずしく格調高い表現を聴かせる正統派の巨匠として知られた、チェコ生まれのピアニスト、アルフレッド・ブレンデル(1931年生まれ)。バッハからシェーンベルクに至る幅広いレパートリーを持っていたブレンデルはそのキャリア初期からレコーディングに積極的で、すでに1960年代からアメリカのヴォックスやヴァンガード・レーベルに数多くの名盤を残していますが、その名が真の意味で世界的に知られるようになったのは、1970年に専属契約を結んだフィリップス・レーベルへのレコーディングを通じてでした。
1969年にブレンデルがウィーンからロンドンに移ったのと期を一つにするように、1970年に開始されたフィリップスへのレコーディングは、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集の再録音を皮切りに、マリナー指揮アカデミー室内管とのモーツァルトのピアノ協奏曲全集(1970年〜84年)、シューベルトのピアノ作品集(1971年〜74年)、ハイティンク指揮ロンドン・フィルとのベートーヴェンのピアノ協奏曲全集(1975年〜77年)など、作曲家ごとの大規模なチクルス録音を並行して展開させ、その知性あふれる新鮮な演奏解釈と当時のフィリップス・レーベルならではの明晰なサウンドが相俟って、絶大な評価を受けるようになりました。
ブレンデル1970年代の総決算
ブレンデルの1970年代の充実ぶりをまとめ上げるかのように、1979年に録音されたのがこのシューマンのピアノ協奏曲です。この作品は、どちらかというとロマンティックで情熱的なアプローチによる録音が主流でそういう傾向の演奏こそが評価されていましたが、このブレンデル盤は、極めて緻密な読譜によって一つ一つの音符や表情を考察しなおし、作品全体の独自の構成感を冷静に見渡すことで、作品の全く新しい姿を明らかにした演奏でした。当時頭角を現していた若手指揮者の中のリーダー格で、ちょうどロンドン響の首席指揮者に就任する直前だったクラウディオ・アバド(1933-2014)にとってフィリップス・レーベルへの初録音となったことも、大きな話題をまきました。特に、もともと単一楽章の幻想曲として構想された由来もあって複雑な構造を持つ第1楽章や、唐突な楽想の変化が多い第3楽章における、明晰なテンポ配分や表情付けは、ロマン派の垢にまみれていた感のあるこの作品のイメージを一新するほどの新鮮さで、日本では1980年度の音楽之友社「レコード・アカデミー賞」を受賞しています。
リリシズムを極めた個性派ラドゥ・ルプー
ルーマニア出身のラドゥ・ルプー(1945年生まれ)はブレンデルよりも一世代若いピアニストですが、1966年のクライバーン、1967年のエネスコ、そして1969年のリーズと国際コンクールを次々と制覇したことで一躍その名を世界に轟かせました。リーズ優勝の縁もあって、ロンドンを本拠に世界的な演奏活動に入ったルプーは、「千人に一人のリリシスト」というニックネームで知られるように、その豊かな抒情的資質に基づく極めて個性的な演奏スタイルが身上であり、透き通るようにデリケートで繊細な美音と、耽美的とも思えるほどロマンティックでありながら決して感情に溺れてしまわない芯の通った表現力を備えていました。
知性派ブレンデルの躍進
ルプーは故国のレコード・レーベルであるエレクトレコードから1960年代末に2枚のアルバムを発表した後、1970年にはデッカと契約を結び、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番を皮切りに、本格的な録音活動を開始しています。グリーグのピアノ協奏曲はルプーにとってデッカへの2枚目の録音となったもので、当時ロンドン交響楽団の首席指揮者として絶大な人気を博していたアンドレ・プレヴィン(1929-2019)と共演しています(グリーグは、もともと同じ組み合わせでのシューマンのピアノ協奏曲とカップリングされて発売されていました)。 プレヴィン指揮するロンドン交響楽団の共感溢れるバックアップを得て、ルプーは、瑞々しい美音を駆使した、多感でナイーブなほどの語り口で作品に込められた以上の抒情を紡ぎだしています。華麗な名技にも不足はなく、第1楽章のカデンツァのパワフルな語り口は、世界的なコンクール覇者の名残ともいえましょう。ルプーは1993年のシューマンの《フモレスケ》と《クライスレリアーナ》をもってソロ録音をやめ、2019年には演奏活動そのものから引退してしまいました。それだけに、このグリーグの復活は、ルプー若き日の個性的なピアニズムを思い起こすよすがとなりましょう。
本ディスクには「グリーグ:ピアノ協奏曲」を収録 2つの録音会場、2つのレーベルの録音ポリシーの差異も
これら2曲の録音はそれぞれ異なる会場で行われています。ブレンデルの録音会場は、ホール名のクレジットはないものの、ロンドン郊外のベッドタウンともいうべきワトフォードにあるタウン・ホール(ワトフォード・コロシアムという名でも呼ばれています)。一方ルプーのグリーグの録音会場は、アナログ時代には万能の名ホールと謳われ、数多くの名盤が制作されながらも1998年に解体されてしまったキングスウェイ・ホールです。いずれもイギリスでは音響効果の優れた録音場所として著名で、このアルバムの2曲もフィリップスとデッカというそれぞれのレーベルの個性を感じさせる音作りが貫かれており、その違いを1枚で聴き比べることができるのも今回のハイブリッド盤のポイントといえましょう。ルプーのグリーグは2004年にハイブリッドディスクとして発売されていますが、ブレンデルの方は今回が初めてのDSDリマスタリングとなります。今回のSuper Audio CDハイブリッド化に当たっては、これまで同様、使用するマスターテープの選定から、最終的なDSDマスタリングの行程に至るまで、妥協を排した作業が行われています。特にDSD マスタリングにあたっては、DAコンバーターとルビジウムクロックジェネレーターとに、入念に調整されたESOTERICの最高級機材を投入、またMEXCELケーブルを惜しげもなく使用することで、オリジナル・マスターの持つ情報を余すところなくディスク化することができました。
■「巨匠風な名演」(シューマン)、「ルプーの尋常一様ではない鋭敏で、繊細な感性」(グリーグ)」
シューマン
「巨匠風なこの名演は、共演者アバドのスケールを遥かにしのぐブレンデルのキャパシティを示しており、現代ピアノ界の王道を歩み続けるブレンデルの確実な足取りを感じさせるものである。名指揮者アバドが小さく見えるというのは予感していなかったが、それだけブレンデルの成長発展ぶりが急速で大きいということなのだろう。〔・・・〕第1楽章では、ブレンデルは感情に溺れることなく、そうかといって情に棹差すこともなく、この情念的なソナタ形式に明確な輪郭を与えることに成功している。間奏曲と副題された第2楽章では、オーケストラが情緒的に流れるのを引き締めて、情感豊かな表現の中にも、きちっとけじめのついた好演を聞かせている。フィナーレでは、全体をよどみない流麗さで仕上げて、無類のテクニシャンぶりを顕示しているが、指揮のアバドが流麗さばかりを強調するのとは違って、微かなアクセントや強弱の対比で、絶妙なコントラストをつけて飽きさせることがない。」
日本初出盤のライナーノーツ 1980年
「シューマンでは、ブレンデルの資質が巧まずして、音楽の美しさを次々と解明していく。彼は丁寧にじっくり弾き込み、透明なタッチと相まって充実した音楽を作り上げる。」 「近年とみに進境著しいブレンデルとアバドの組み合わせは非常に充実した演奏を生み出した。演奏全体に落ち着いた風格がある。それは揺るぎない安定感と二人から滲み出てくる自身が生み出したものであろう。」
『レコード芸術』1981年11月号 特選盤
「ききごたえある演奏内容だ。独奏ピアノ、伴奏ともに整然としており、ゆたかな表情にも不足がない。ブレンデルもアバドも、自分たちの目標としているところがどこであるかを正確に知り抜いており、その目標が的確に到達されている演奏といえよう。」
レコード芸術・別冊『クラシック・レコード・ブック1000(3)協奏曲編』1985年
「80年度レコード・アカデミー賞受賞盤。巨匠への道を歩みつつあるブレンデルとアバドの2人の個性がよく結びつき、演奏に大きな風格を与えている。十分にロマン的でありながら、その表情は決して大げさに崩れることがない。制御の利いたブレンデルらしいアプローチだが、シューマンの音楽の美しさを次々に明らかにしていく。」
レコード芸術・別冊『クラシックCDカタログ89〈前期〉』1989年
「ブレンデルとアバドが初めて共演したシューマンは、両者の呼吸が合った演奏が感興豊かであり、幻想的な作品にあふれるみずみずしいロマンティシズムを新鮮に表現している。」
『ONTOMO MOOK クラシック名盤大全 協奏曲編』1998年
「1980年度のレコード・アカデミー賞を受けた名盤で、ブレンデルとアバドの初顔合わせ、2人ともこの協奏曲は初録音という話題盤であった。正攻法の演奏を細部まで彫り深く、引き締まった感覚で展開している。起伏豊かでスケールの大きな演奏は、シューマンのロマンティシズムをみずみずしく再現して、デリケートな抒情にも不足がない。アバドがそうしたブレンデルのピアノを明敏な指揮でくっきりと生かしている。」
『クラシック不滅の名盤1000』2007年
「身震いするようなテクニックや清冽かつ強靭なタッチ、緻密に読み込んだ分析力、そしてその表現の研ぎ澄まされた実践能力等々、シューマンのピアノ音楽を貪欲なまでに掘り下げ、有無を言わせぬシューマン観を打ち出してみせる。凝り性で徹底的に追及するブレンデル流の極め方が圧巻。緊張感に満ちた熱演を引き出したアバドも見事。」
最新版『クラシック不滅の名盤1000』2018年
グリーグ
「ルプー初期の録音だが、ここでも彼の尋常一様ではない鋭敏で、繊細な感性は明らかだ。作品が要求している深い抒情性を、実に感性豊かに再現しており、清潔な歌心に満ちた部分など、ルプーの独壇場といえよう。澄んだ抒情性と力強さを兼ね備えており、ルプーの器の深さといったものをよく示している。」
レコード芸術・別冊『クラシック・レコード・ブック1000(3)協奏曲編』1985年
「淡く繊細なリリシズムをたたえたラドゥ・ルプーのグリーグを忘れてはならないだろう。徹底して瑞々しい抒情を前面に打ち出しているグリーグの演奏である。およそ強靭なタッチでバリバリと弾きまくる力強い演奏が犇めく中で、はるかに没我的な、いやそれが言い過ぎなら、ひたすらたおやかな詩情を屈託なく展開してみせる演奏例は、ここでのルプーを置いてほかにないような気がする。終始爽やかでソフトな手触りの演奏ながら、フレージングは決して小さくなく、プレヴィンの指揮も実にのびのびと、ルプーのデリカシーに的確な陰影と推進力を与えている」
『ONTOMO MOOK クラシック名盤大全 協奏曲編』1998年
収録曲 / 詳細
ローベルト・シューマン
ピアノ協奏曲 イ短調 作品54
アルフレッド・ブレンデル(ピアノ)
ロンドン交響楽団
指揮:クラウディオ・アバド
エドヴァルド・グリーグ
ピアノ協奏曲 イ短調 作品16
ラドゥ・ルプー(ピアノ)
ロンドン交響楽団
指揮:アンドレ・プレヴィン
[1] |
ローベルト・シューマン
ピアノ協奏曲 イ短調 作品54
第1楽章 アレグロ・アフェットゥオーソ |
[2] |
第2楽章 インテルメッツォ(アンダンテ・グラツィオーソ)−(アタッカ) |
[3] |
第3楽章 アレグロ・ヴィヴァーチェ |
[4] |
エドヴァルド・グリーグ
ピアノ協奏曲 イ短調 作品16
第1楽章 アレグロ・モルト・モデラート |
[5] |
第2楽章 アダージョ |
[6] |
第3楽章 アレグロ・モデラート・モルト・エ・マルカート |
詳細
シューマン |
[録音]1979年6月13・14日、ロンドン、ワトフォード
[初出]PHILIPS 9500 677(1980年)
[日本盤初出]フィリップス 25PC68(1980年8月25日) |
グリーグ |
[録音]1973年1月、ロンドン、キングスウェイ・ホール
[初出]DECCA SXL 6624(1973年)
[日本盤初出]ロンドン SLC2363(1974年3月25日) |